発作的な虚無
◆時折訪れる恐怖、そして虚無
暗めの内容なので予めかわいい画像で中和。
発作的に虚無が訪れることがある。
日々の暮らしの話をする。
最近の私の生活を大まかに分けると、Youtubeやゲーム、ブログ、読書、そして予定があれば外出をするといった具合だ。時間の割合は概ね順番のとおりである。
読書では「青空文庫」を活用している。
「青空文庫」は『誰にでもアクセスできる自由な電子本を、図書館のようにインターネット上に集めようとする活動(※下記より引用)』のことだ。
要は「昔の文学作品をタダで読めるサイト」である。
クイズアプリで遊んでいるとしばしば
「『~~~』という書き出しで始まる、作者XXの作品は何でしょう?」などという出題があるのだが、あまり著名な作品を読んでこずに育ってきた私には、分かる問題の方が少ない。
読んでいなかった作品例を挙げると『坊ちゃん』や『こゝろ』など数多ある。千円札の肖像が変わった頃合で、世間の漱石ブームは過ぎ去ったように思われるが、私の場合は次の次のデザインが決まった今、周回遅れで訪れてきた。
上に「読んでいなかった」と過去形で書いたのは、『坊ちゃん』は読み終え、『こゝろ』は現在読んでいる途中だからである。
そして、表題に描いた「虚無」はその『こゝろ』を読んでいる時に襲ってきた。
私は、比較的知識欲がある方だという自負がある。現代で云われる「若者はスマートフォンで知らないことをすぐ調べる」というあれこれにはもれなく該当するだろう。
『こゝろ』を読んでいる時もわからない言葉はそうやって逐一調べていた。
すると突然やってきたのだ。
調べて何になる?
どれだけ頑張っても、この世には分からないまま終わることの方が多いだろう?
頑張って学び続けてもどうせどこかで頭打ちじゃないか?
知っていても活かす機会は永遠に来ないんじゃないか?
たまにこの悪い思考に陥るのである。過去にも幾度か同じように考えたことがある。
私は時折訪れるそれに辟易し、その度にどうやって解決しているか忘れてしまうので、今回は再び陥ってしまった時のために、時間を無駄にしないようここに書き留めておくことにした。
それでは肝心の解決方法だが、まずは「死は平等である」ということを思い出すことだ。
ざっくりし過ぎなので説明すると、考え方の一つとしてある
「生きるのは死ぬまでの暇つぶし」
を思い返すことである。
「どうせ暇つぶしなのだ」とその虚しさを当たり前のこととして、受け入れてしまうのだ。
そして次は、「自分は弱い生き物だ」ということを自覚することだ。
遠い宇宙に思いを馳せ、自分は矮小な存在なのだと受け入れる。知識も何も無いけど、弱いのだからこれもまた当たり前なのだ。対人ゲームで負けた時においても、こうすることである程度悔しさを緩和できる。
しかし、この考えには注意しなければならない点がある。
それは「悔しさを忘れてはいけない」ということ。
悔しさを忘れてしまえば成長は止まる。私の心のガソリンは嫉妬と反発だ。一旦悔しい場面を受け入れつつも「二度とこうなるまい」として、臥薪嘗胆を胸に置いて日々精進していくことこそが、弱いながらも強く生きるための秘訣である。
知識をつけても、やっぱり活かす機会なんて来ないかもしれない。
だが、「知っている」ということこそが自信となるのだ。
老いや不自由なんかで、頭打ちになることもいずれはあるだろう。
でも、そんなのはその時に考えれば良いことだ。
何を偉そうにと思った方もいるだろうが、あくまで持論なので知るか。俺の人生だ。
今後またこういうことがあったら読み返して立ち直っていきたい。結構真面目です。
「世の中そんなもんさ」。