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男もすなる日記といふものを、harumakiもしてみむとてするなり。

「わたしとインターネット」【インターネットはどこへ消えた?】

はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」 

 

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【インターネットはどこへ消えた?】

 

 桜は知らぬ間に散っていた。

 

 

 『今日の天気は晴れ。最高気温は35℃を超え、湿度が高く蒸し暑い日が続きます。

 お墓参りの際は水分補給を忘れずーー、』

 

 誰の許可を得てもいないのに、窓から太陽の光が遠慮無しに入ってくる。

 傲慢な光をうざったく感じた私は、汗ばむ身体を椅子から剥がし、重く立ち上がってカーテンを閉めた。

 広い空は嫌味なほど青く、入道雲は無気力に漂い、ゆらゆらと流れて行く。

 私は部屋の中を見渡した。休日の薄暗い部屋の中はどこを見ても草臥れて(くたびれて)いる。

 かけっぱなしの洗濯物、台所に溜まった食器、捨て忘れたゴミ袋。

 動くことの無いオブジェクトたちと殺風景な白い壁が、同化して蜃気楼のようにぐにゃぐにゃと動いている。これは眩暈(めまい)だろうか、それとも本当に蠢いて(うごめいて)いるのか、触って確かめようかと思ったが、やっぱりどうでもいい。

 海でも行ってみるか。いや、面倒だ。きっと惨めな思いをするだけだ。

 観葉植物でも買ってこようか。一つでも彩りが増えれば、多少は見映えするような部屋になるだろうか。いや、止めておこう。どうせ枯らしてしまうだけだ。この炎天下の中を飛び出す元気も、小さな志さえ無い。

 ひとつ溜息をついた。

 今年も実家に帰らなかった。

 明日からはまた、仕事である。

 

 

 結局、スマートフォンを持って、何も変わらない狭い部屋の狭い布団の上に転がるのだ。

 Twitterのタイムラインを見て、ウェブ漫画のページを親指でめくる。目だけでニュースの文字を追い、まとめサイトを見て、Youtubeで他人の栄光を垂れ流しにし、そうしてまたTwitterを開く。

 マナーモードにしっぱなしの携帯から音は鳴らない。あるのは無機質でリアリティの無い情報と、垂れ流しの他人の私生活だけだった。

 毎日そうやって、身体だけを休める。心はひりひりと痛んで、か細い悲鳴を上げているが、知らないふりをしたまま一日を終えるのだ。

 

 ただ、その日はちょっとだけ違っていた。

 Twitterのトレンドを見ていると、ある一行が目に留まった。

 

 『ノスタルジーランド サービス終了』

 

 「うそ」

 

 氷漬けになっていた心がざわつく。

 ノスタルジーランドは、私が8年前にプレイしていたオンラインゲームである。広大なマップと、綺麗なグラフィックが持ち味のゲームだった。

 当時学生だった私は、放課後や休みの日の有り余った時間のほとんどをこれに費やし、ゲーム内で知り合った友人とチャットをしながら、寝る間も惜しんでこの世界に入り浸っていた。

 夏になれば海洋のマップで水遊びをし、冬になれば山岳のマップで雪空を仰ぎ、年末は大聖堂のある都市のマップに赴いて、皆と共に青春を過ごしてきた。

 ノスタルジーランドは私にとって、ネット上の故郷のような存在である。

 

 身体を起こし、久しぶりにノートパソコンを開いた。埃(ほこり)がさらさらと落ちていく。

 ブラウザを開き、ノスタルジーランドと打ち込んで検索する。少し時間が経って、ゲームのサイトが表示された。

 サイトは新しいデザインに変わっていたが、慣れ親しんだキャラクターの立ち姿や風景が懐かしい。

 お知らせには、サービス終了の文言が大きく掲示されている。本当に終了してしまうようだ。

 

 『ノスタルジーランドをプレイしていただき、誠にありがとうございました。』

 

 記憶の奥底にしまってあった思い出が私の皮膚の上をざわざわと駆け巡り、胸をきゅうっと淡く締め付ける。

 私は左手で弱く拳を握り、堪らずゲームスタートのボタンをクリックした。インストール完了までの残り時間が表示される。お前はこんなにもここから離れていたんだぞと、そう訴えられているような、そんな気がした。

 完了してロビーに入った。知らないキャラクターや機能は追加されているようだが、ここは確かに私の知るノスタルジーランドであり、そして私の居場所だった。

 ここで仲間たちと過ごしたあの日々が、ついこの間のことのように感じる。

 間違いない。ここは私の故郷だ。

 

 無意識にフレンド欄を開く。

 ログインして、他のログイン中のフレンドを探す。それがいつもの習慣だった。

 ずらりと表示された旧友たちはみな懐かしかった。

 しかし、私は大きな衝撃に打ちのめされた。フレンド欄には、それぞれのプレイヤーの最終ログインが表示されている。

 

 『6年前』

 『6年前』 

 『8年前』

 『2年前』

 『6年前』

 『1年前』

  ・

  ・

  ・

 

 

 

 フレンド欄はいつの間にか、時を切り取ったアルバムになっていた。 

 ずっとずっと長い時を、同じ時を共有したこの友人たちは、全員、背丈も顔も、名前も知らない。

 当時はゲームをしながらの通話がメジャーでなく、チャットでのやり取りが主流だったから、声すらも、一度たりとも聴いたことが無い。

 それでも、無限に広がるインターネットの世界の中からこの場所を選び、集まり、語り合い、冒険する私たちは仲間であり、たくさんの時間を共に過ごした親友だった。

 確かにそうだったはずである。

 世界はいつの間にか、我々のいない間にうねりながら姿形を変え、似ていながらもどこか別のものになってしまったらしい。卒業した学校の教室が、自分の場所でなくなるのと同じである。それが、ほんのりと寂しいものであることも。

 そして、それはどうすることもできない、仕方の無いことである。

 

 ロビーにはプレイヤーが続々と入ってきている。どうやらサービス終了を聞きつけた者たちが、同じように集まってきているようで、全体チャットでは、ゲームとの別れを惜しむ声や再開を喜ぶ声で、大いに盛り上がっている。

 私は30分ほど画面をひたすら眺めた後、ゲームを閉じた。

 この30分という時間は、自己を省みるのに充分な時間だった。

 私はどうにも、卑屈になっているらしい。

 インターネット社会という境界線の曖昧な世界で過ごし、他人の青くて美しい崇高な人生を覗き見している内に、それらと自分を、どうしても比較せずにはいられなくなってしまっていた。

 別に働いていないわけじゃない。資格だってちょっとは持ってる。恋人はいないが、リアルの友達はいる。貯金もほんの少しある。

 ざわつく心を「皆苦労している」「誰だってこんなものだ」と鎮める日もある。

 それでも、普遍的で平凡な私の人生が、色味の無い恥ずかしいもののように思えてきて、憂鬱の谷底へ、積みあがった卑屈と不安を抱えて幾度となく落ちていくのである。

 

 

 もう昔やっていたゲームのことなどどうでもよかったのだが、

 ふと、思い立った。

 そういえば、掲示板の方はどうなっているだろう。

 掲示板には、ノスタルジーランドの攻略情報やスレッドがまとめられており、ログインしている仲間がいない時は、掲示板でアイテムの取引を行ったり、冒険に出るパーティーメンバーを募ったりした。

 その掲示板は私にとっては、近所の公園のようなものであった。

 公園にいけば誰かがいて、その誰かと鐘が聞こえてくるまで遊んで、また明日も遊ぼうと約束をする。次の日来てみればまた知らない人が増えていて、また遊んで、友達の輪が広がっていく。フレンド達と出会ったのもこの場所だった。

 そのフレンドも今となってはどこにもいない。

 増して、その掲示板でさえも、全く見つからない。適当に検索していくつかページを開いてみたが、どれも違う。

 閉鎖してしまったのだろうか、あるいは新しいサイトの下に埋もれてしまったのか。ページを2,3とめくってみても、どこか別のサイトにリンクが貼られていないかと探してみても、その場所は見つからなかった。

 だが、まあ、仕方の無いことだ。デザインについても、昔のインターネットらしさが垣間見えるような、とにかく凝ったものではなかったし、当時も利用者はちらほらいたが、熱心に運営されているようなサイトではなかった。

 それに、そんなに躍起になるようなことでもない。

 全て過去に置いてきてしまったのだ。

 

 相も変わらず、白い壁は渦を巻いている。

 カーテンが翻り、夏の香りが鼻をくすぐった。

 目をつぶり、ぼーっと、自分の中にある夏を反芻すると、皆と過ごしたあの時間が、記憶にはあれど、どこか現実でない、遥か遠い夏の幻影であるかのように錯覚する。

 ふと故郷の姿が見たくなって、何も持たずに飛び出したくなるような感覚が、私を襲った。

 やっぱり実家に帰った方が良かっただろうか。

 帰るなり真っ先に自分の部屋へ行き、勉強机のノートパソコンを開き、ブラウザを開いて、掲示板に顔を出して、晩御飯になるまでゲームをする。お母さんに呼ばれ、ご飯を食べながらゲームのことを考えて、食べ終わったらまたゲームをして、眠りについて一日を終える。

 思えば、今の生活とあまり変わらないような気もする。

 違うことといえば、周りには皆がいて、見るものすべてが新しくて、そして楽しかった。

 そのくらいである。

 私は、インターネットというものに対して、どこか不変であることを期待していた。0と1で構成されている世界に結末は存在せず、新しい流行やトレンドが来ては既存のものに後付けされ、そして宇宙のように絶えることなく拡がっていくのだと、そう信じていた。

 そうでないことは分かっていたが、それでも少しだけ、おぼろげに信じていたのだ。

 故郷は変わらない姿で、いつまでも私を待ってくれていると。

 そう、信じていたのだ。

 

ーーーーー

 

 数ヶ月ほど経って季節は移ろい、私の郷愁も時間と共に落ち着いていった。

 実家とも連絡を取った。母さんが言うに、今年の墓参りは適当に済ませたらしい。

 時の流れは残酷だが、淡い心の傷を癒してくれるのもまた、時の流れであることに相違ない。

 ノスタルジーランドは予定通りにサービスを終了し、その歴史に幕を閉じた。

 結局、私は終了間際にもう一度ゲームにログインし、そしてフレンドと会った。

 皆、社会人になっていたり、あるいはまだ学生をやっていたり、あるいは良くない事情で働けていなかったり、みなそれぞれの暮らしを営んでいるらしい。

 会えなかったフレンドたちも、きっとどこかで生きているだろう。そう、願っている。

 束の間のタイムスリップを楽しみ、そして私たちは日常へと、戻っていった。

 

 明日からはまた、仕事である。

 

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 以上です。暑い中、お読みいただきありがとうございました。

 

 僕にとってインターネットとは、「今いる場所であり故郷」です。

 僕がインターネットの世界に初めて飛び込んだのはおよそ15年前です。

 "おもしろフラッシュ" を友達の家で見たのがきっかけでした。

 その頃は「ホームページ」(表現には諸説ありますが割愛)も安っぽいものばかりで、青字のリンクに下線が引いてあってものばかりでした。

 その後は順当にブラクラに引っかかり、詐欺サイトの支払いのカウントダウンに肝を冷やし、泳ぎ方を知らなかった雑魚の僕は荒波に揉まれる日々でした。

 元号は令和になり、かつて最新だった"XP"は"10" へと進化、件のAdobe Flash Playerも終了、よく見ていたサイトもいつの間にか閉鎖、パカパカケータイはスマートフォンになり、我々のインターネットはめまぐるしく変化していきます。

 初めて世界に飛び込んだ15年前から、私は恐らく、片時もインターネットから離れたことがありません。

 ずっと同じ「インターネット」という場所に立っていたはずです。

 それなのに、かつてのインターネットの姿はどこかへ消えてしまいました。

 そんな中で昔の景色を思い出す度に、それがどこか遠く離れた異郷の地であるように思える感覚が時折、沸々と湧いてくるのです。

 

 この小さな小さな液晶の画面を見ているだけで、

 公園の遊具が無くなっていたり、通学の目印にしていた家が壊されて跡形もなくなっていたり、卒業した学校の制服を見たりした時に感じる、小さな寂しさを、

 思い出すことがあるのです。