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男もすなる日記といふものを、harumakiもしてみむとてするなり。

私は成人式に行かなかった

◆私は成人式に行かなかった

 

「私は成人式に行かなかった」というタイトルのレポートを書いたことがある。

 

それは大学の講義で提出したものだ。その講義は、日本や日本以外の各国で行われる文化的な行事や祭事について学ぶものであり、15回前後ある講義の終盤で「通過儀礼」についての回があった。

 

通過儀礼とは

「人の一生に経験する、誕生・成年・結婚・死亡などの儀礼習俗。」(広辞苑 第6版)のこと。

担当教員は、結婚式、葬式、そして成人式などを例に挙げ、その題についての自分の考えをレポートにして800文字程度で書いてくるよう指示した。

指示を聞いてみるに、レポートよりは作文と言った方が適切だろうと感じ取った私は、成人式の記憶を辿り、その "行かなかった経験" を基に、一筆適当にしたためてやろうと考えた。

 

 

ちなみにこの講義を取った理由は、卒業単位が足りなかったからだ。

 

 

■後悔

先日パソコン内部の整理をしたのだが、その際に元文のデータを消してしまったらしい。

 

レポートの内容はたしかこうだ。

[起] 私は成人式に行かなかった。朝からスーツを着て、寒空の下を歩き、知らない議員だかの話を小一時間黙然と聞くことは、明らかに無駄な行為だからである。

 

[承] 通過儀礼は、その行事自体にはやはり大した意味は無い。出向いたとしても貰えるものは精々、記念品のボールペンか何かくらいだろう。

 

[転] しかしながら、変わるものが一つだけある。それは「大人になったという意識」だ。成人式という通過儀礼を経て、我々は大人になったという意識を身に着けるのだ。

 

[結] そういう意味では、形式的に20歳を過ぎた私は大人になったつもりでいたが、格好つけて世を穿った目で見ている私のような者こそが、一番の子供なのかもしれない。成人式に行かなかったことを後悔はしていないが、本レポートを通して、大人であるということについての意識を改めようと考える。

 

 

以上。それっぽく最もらしいことを書き上げ、提出した。

教員の印象と授業の評価はそれなりに良かった(と記憶している)。

 

 

 

さて、今回私が言いたいことは

 

「やっぱり成人式に行った方が良かったんじゃないか?」

ということだ。

 

 

 

 

これは手のひら返しだろうか。いや、これは手のひら返しではない。(反語)

レポートの[結]にも書いたとおりで、私は「成人式に行かなかったことを後悔はしていない」し、今もってその心持ちに変化は無い。

 

 

私に出席資格のあった、数年前の成人式当日。

当時のバイト先では「成人式があるから」と休みを入れてもらったものの、元々行く気のなかった私は予定通り昼まで眠った。午後あたり皆の成人式が終わったころに、地元のゲーセンで合流し、カラオケに行き、居酒屋に行って過ごした。この飲み会はいつも会っているメンバー4,5人のみでの開催だった。いわゆる "いつメン" というやつだろう。

反対側ではクラスの同窓会もあったようだが、特に用事も無かったことと、自分の中の陰のエレメントが強く反応したため、足は遠のいた。

 

再三言うが、この過ごし方に後悔はない。自分自身、最高の過ごし方をしたと考えている。

 

 

では今頃になって何を蒸し返すのか。

カミングアウトすると、毎年このぐらいの時期に、成人式に行かなかったことについて悩んでしまうのだ。

 

新成人側の立場で成人式に出るチャンスは生涯で一度きりだ。考えようによっては何度も挙式できる結婚式より貴重と言える。そのようなことをどうしても考える。

そして帰巣本能を持った鳩が同じ場所に帰ってくるように、私の考えも「行かなくても良かったな」という結論に必ず帰るのだ。

 

今後もこの結論が覆ることは恐らく無いだろうが、しかしながらこの悩んでいる時間は果てしなく無駄である。

 

こう毎年悩み続け、今後も悩み続けねばならないのかと思うと疲れてたまらない。

そんなことならば、午前中くらいパッと成人式に出向いて、「出たけど何もなかったな」という経験のみを得て、それで成人式との縁をさっぱり切った方が良かったのかもしれない。

 

 

今となっては知り得ない、まさしく後の祭りである。

 

 

もしも、これを読んでいる成人済の人がいれば、同じ悩みを持っていないことを切に願う。

もしも、これを読んでいる未成年の人がいれば、自分の番が回ってきた時に「何も無い」ということを確認してみてもいい。

 

 

宝箱を開けなかった無限の後悔より、宝箱を開け、そこに何も入っていなかったという一度きりの徒労を食らう方が、いくらか健康的であるかもしれないと、私は思うのだ。